徳田秋声の『あらくれ』を読んだ。この作品は1915年に徳田秋声が読売新聞紙上に連載した長篇小説である。また、後年、映画化もされた。

主人公はお島という男勝りの勝ち気な女性の物語である。養女として育てられた家から、婿取りに気が乗らずに飛び出していくところから始まる。

そして、場面がくるくる変わる。話が発展してゆくということではない。同じような調子で進んでゆくだけである。新聞に連載した話であるので、徳田秋声は書きながら筋を考えたのであるから、一貫性はやや欠ける。この小説では、主人公は、次から次と男を換えながら、そして男も次から次と女を換えながら生きてゆく。

大正時代の農家、商屋の様子、さらに人間関係が分かる小説である。読んでいると当時の人々の貧乏な暮らしが分かって辛い。登場人物達は、常に金欠病に悩まされている。狭い借間や居候をしたりしている。そして、食い詰めては新しい仕事を探しにいろいろなとこをへ行く。仕事が見つかる、そして少しは羽振りがよくなったと思うと、次の瞬間にはどん底に落ちてしまう。この当時は、ほとんどの庶民がそのような生き方をしていたので、自分だけが惨めだという風には考えなかった。

書評では、お島という主人公のたくましい生き方をたたえる人もいたが、私が感じたのは、図太く生きざるを得なかった当時の時代を考えてしまう。

ただ貧しい時代だったので、相互扶助の精神は生きていた。何かあると実家や兄弟を頼って身を寄せたりする。それが当たり前だという風に考えられていた。現代では、親戚同士の縁も薄くなり、一人だけで生きてゆくことが可能になった。

ミニマリストや断捨離という言葉が現代は流行しているが、裏返せば、それだけ豊かになった時代に住んでいることであろう。大正時代の人々は、好むと好まざるとに関わらずにミニマリスト的な生き方しかできなかった。現代のように、自ら進んでミニマリストを選択できるわけではない。さらには、現代では、仕事も比較的に容易に見つかる。そんな現代とこの小説の時代とを比較してしまった。

さて、この話はうねうねとストーリーが続いてゆく。起承転結があって、何か劇的なことが起こるのではない。ただ、大正時代の庶民の生活が延々と描かれるのだ。でも、それは平成最後の時代に生きている自分にとっては、別世界の話でもあり、非常に興味深かった。