2014-10-31

しばらく、このブログを更新していなかった。新しい企画書を書くために時間的な余裕がなかったからである。何とか、時間を見つけて少しずつは本を読んでいるので、少しの感想でも投稿してみたい。

グリム童話集は相変わらず読んでいる。第111話まで読んだ。第109話 Das Totenhemdchen は愛児が亡くなったので泣いてばかりいる母のところに、夢で愛児がでてきて、泣くのはやめてほしい、経帷子がぬれて眠れないと訴える。そこで母は泣くのをやめたという話。

第110話 Der Jude im Dorn はユダヤ人が出てくるという点でユニークである。例によってユダヤ人はずる賢くて最後に罰を受けて死罪となる話だが、現代では人種偏見をあおる話として、問題視されるかもしれない。

第111話 Der gelernte Jäger は次の点をコメントしたい。(1)ドイツの若者は旅に出る。旅立ちをへて一人前になるという思想が見られる。この話も例外ではない。(2)ドイツの深い森が出てくる。森の中で迷う。… kam in einen sehr großen Wald, von dem konnte er in einem Tag das Ende nicht finden. (no.6903) 自分のブログのタイトルにこじつけると、「人は異文化の深い森に入り、それを乗りこえて、成長する」とでも言えようか。(3)美しい王女と出会う。この話では、Königtochter となっていてPrinzessin は使われていない。(4)策略で巨人を倒す。(5)巨人を倒したと主張する ein Hauptmann が登場する。彼の邪悪さを示すために、彼を片目として登場させている。der war einäugig und häßliche Mensch, (no.6946)とある。心の醜さと体の醜さがつながっているというテーゼは、現代ではかなり非難されるだろう。しかし、もちろん、どんな小説でも主人公は美男美女で、それに敵対する人は醜男醜女であり、こころも醜いというワンパターンである。それ以外のパターンで小説が書かれると読者が読まないからである。つまり読者たちがそのような公式を要求しているのである。(6)王女を bildschön としている。絵に描かれるのは美しい人ばかりである。(7)王女の求婚者となったHauptman は巨人の口の中の舌が切られていたことの説明ができずに、自分の嘘がばれてしまい、死罪となる。

以上、グリム童話集は現代のPC (Political Correctness)の観点からは、突っ込みどころが有りすぎるが、どんな文学作品でも時代の制約からは逃れられない。しかし、その制約を越える魅力があるのだ。