2014-04-26

p.32 で次のような文があった。Nour cherchons seulement quelques informations. 注目したいのは informationsという語である。ちょっと、違和感をいだいた。それは、英語ではこの語は不可算名詞として複数形にはならないからである。大学入試問題の正誤問題で頻出する語である。しかし、フランス語では、あっさりと複数形informationsが現れるのである。たとえば、例文「問い合わせに行く」は aller aux informations である(ロベール仏和辞典より)。

家具 meubleも複数形がある。mettre des meubles dasns une chambre(プティロワイヤル辞典より)穎悟ではfurnitureは複数形にはならない、必ず、much furniture とか a piece of furniture にしろとしつこく言われたものだった。adviceも穎悟では数えられないが、該当するフランス語の conseilは複数形がある。donner conseils a qn のように使われる。

我々は英語だけの知識で、西洋社会では情報はひとかたまりと考えて、個々の姿には着目しない、などと言ってしまいがちだが、要は「英語だけの言語的特徴」であり、それから「西洋社会全体の特徴」などと言い切ってしまうのは問題である。

ところで、私は物語を読むのが好きだが、どうしてかと自問自答してしまう。それは要は「読者がいくらでも解釈できる自由さがある」から楽しいと言えよう。言葉には限界があり、現実をすべて示すことはできない。我々は幼少の頃から、限られた内容の話しを聞いて、それを勝手に膨らまして楽しんでいると言えよう。Maigretを読んでいて、話しのストリーは骨組みしか分からない。でも登場人物達の喜怒哀楽を感じて想像をくわえて、こちらも一喜一憂する。そんなことが面白いのである。