2015-04-27
『国境の南、太陽の西』を聴いている。Shimamoto-san は箱根の別荘での出来事の後、突然消え去る。その後、Hajimeはふぬけになったようになる。そして、Shimamoto-san のイメージを追い求める。Shimamoto-san はどうやら死の象徴だったようだ。Shimamoto-sanへと深入りすることは死への道を進むことであった。(村上春樹は多くの小説で死を頻繁に象徴させる、登場人物をやたらと自殺させる。村上春樹は健全な小説家のように見えるが、内面は常に死の概念に苦しんでいるのか。おそらく、小説の登場人物を自殺させることで自分は生きのびて、自らは健全化していくのだろう)
青と赤の色彩の使い分けは微妙である。Shimamoto-sanは青のイメージである。常に青い服を着ている。(あと、雨の日の夜にHajimeの職場に現れる。水も彼女のイメージのようだ) 色彩に関しては、彼の自宅の近くの青山墓地も関連するのか。一方のIzumiは赤色でイメージされる。赤信号で止まっているタクシーの後部座席を見ると、Izumiがいる。こんなところまで、赤とIzumiを関連づけをしている。著者の巧みさが垣間見える。そして、信号が青(英語では green)になると、Izumiは消え去る。そして、Hajimeは生きていく決心をする。最後の部分、Hajime の肩に手を置いた人物は誰か?この謎解きに人々はどのように解釈しているか。いくつかネットで人々の解釈を見てみたい。
『国境の南、太陽の西』は本来は古上織蛍氏の解説によれば、『ねじまき鳥』の一部として構成された話とのこと、そう言えば、KumikoとYukiko は重なる部分もある。もしも、一部として取り入れたら、『ねじまき鳥』の全体の話はどうなったのか。ただでさえ、大部過ぎて構成が見えにくくなっているのに。