2014-06-04

『異邦人』を読み進んでいる。この本が発刊されたのは1942年である。ナチス占領下のパリで発刊されたのか?このような本を出版する事ができたのか。この当時、すでに黙秘権という考えがあって、判事がムルソーにそのことを告げている。また 国選弁護士という制度があって、ムルソーの弁護士はその形で選ばれたようだ。フランスは法の先進国と言うべきだろう。

読んでいて、気づいたのだが、 一つ一つのセンテンスに無駄がない。すべてが有機的につながっていてこれは驚異的なことだ。フランス語の勉強にこの本を暗唱しようとする人も出てくるであろう。たしか、自分もこの朗読をiPodに入れていた気がする。あとで、調べてみよう。

でも、この本を読んで勇気づけられたとか、人間への信頼が高まった、生きることへの高揚感を抱いた、という類いの本ではない。譬えて言えば、人生の深淵を覗いた怖れ、知らなかった深淵をのぞき込んでいる、とも言うべきか。

no. 865で 判事は銀の十字架 un cruicifix d’argent を示して ムルソーに悔い改める事を迫る。しかし、ムルソー彼の理論についていけない。no.867 で、A vrai dire, je l’avais tres mal suivi dans son raisonnement,.. とある。そして、判事は神を信じるかとも尋ねる。そしてムルソーは当然、non と答える。当時のフランスで、カトリックの信仰の篤い国でこの言葉は破壊力がある。私を含めて日本人にはこのあたりのすごさは理解できないのだろう。

(no.920) J’ai apercu Marie en face de moi …とマリーと面会する。 (no.926) elle me souriait de toutes ses forces, とある。彼女は面会の時は、ずーと笑顔を無理にでも続けている。この段落はすべてsourireが使ってあるが、それまでの第一部では、ほとんどrireだった。 この小説では、rire と sourireが使い分けてあるのか?仮説として、rireは自然の笑いであり、sourireは無理矢理の笑いである、と言えるか。『異邦人』の中で使われる rire, sourireの違いを論じた論文はないか探してみたい。

no.934では、せっかくマリーが面会にきてくれたのに、他の訪問者のことばかりに関心が行っている。ムルソーの返事は相変わらず素っ気ないし、対照的にマリーのいじらしさが際立っている。