2014-04-01

 

新しい学期が始まる。いつもこの時期は桜が満開で人々の目を楽しませてくれる。ところで、Hauffを少しずつ読んでいるのだが、キャラバン(Karawane)の冒頭で、(脱線するが、この語をアクセス独和辞典でひいたら、発音はカラヴァーネとある、てっきりカラワーネと思っていたので意外であった。つまり英語の発音に自分は慣れ親しんでいることであろう)、Wüsteが出てくる。ドイツ語の小説を読むと、なぜか森(Wald)の場面から始まることを期待してしまう。その意味では、キャラバンと砂漠から始まるのは、期待はずれであると同時に面白いとも思った。もちろん Hauff 童話の第一集の魅力はオリエント風の味わいであるので、砂漠はそれなりに魅力的な背景だが。

 

自分がドイツと森を連想づけるのは、ヘンゼルとグレーテルの物語の強い影響がある。貧しい二人が、両親に森へ連れて行かれる。そこは、異文化(異界)である。自分は深山や深い森が現れる小説を読むと、ちょっとどっきりとする。それは、異界へさまよい込む話を期待して、ドキドキするからである。事実、森へ入るにつれて、幼い二人はさまざまな異次元体験をしていき、成長を経験する。ヘンゼルとグレーテルは深い森の中へ、それは彼岸の世界(そして死と再生の舞台)だが、そこで魔法使いの老婆と遭遇する。異界であるから、極度に魅力的なお菓子と極度に恐ろい姿をした醜い老婆が両立している世界である。

 

昔 Mircea Eliade の本を読みふけっていたころ、世界を二つに分ける考え、聖と俗の対立関係に魅了された。自分はこの年になっても、世界を区分けする考えが基本にある。村人たちにとって村の領域内は俗なる世界で安心できる世界でもある。しかし、村はずれから続く深山は恐ろしくて山人や天狗や鬼などの怪物の住む世界である。しかしその世界は同時に人々を引きつける世界でもある。超自然的存在者が登場人物である物語は、聖なる世界からこの世界へのメッセージである、と私は考える。そのようなメッセージを常に聞いていたいと思っている自分にとって、お気に入りは神話、童話、ミステリー、Roman Noir, SF なのである。

 

この異界は外界にあるだけではなくて、実は自分自身の中にもあるようだ。ドッペルゲンガーとは、自分の中の他者、自分という一番知り尽くした世界の中に、異者が潜んでいるという点が面白い。それは文学者や学者たちは、無意識とか、夢判断、イドなどと呼んで調べようとした。自分はその鍵は、言語構造にもあると考える。つまり再帰代名詞や再帰動詞にあると考える。再帰代名詞は異界への入り口であるとしたら言い過ぎか?She looked at herself in the mirror. では、herself は自分ではない何かへの入り口を示すのである。英語ではこの用法はあまり盛んでないが、ドイツ語やフランス語では多用される語法である。これは調べる価値がある。