2015-08-15
Haruki Murakami の Hard-boiled wonderland and the end of the world. を聴いて色々と考える。ふたつの世界がある。一つは現実でもう一つは仮想の世界であると考えていいだろう。このテーマは映画でもよく使われる。Matrix とか Avatarなどがそうである。
壮子の説話の中で、胡蝶となって舞っていた自分がふと夢から覚めたが、これは蝶であるのが実態か、あるいは今の自分は蝶が見ている夢でないかと迷う話がある。
そもそも小説を読むということはそのようなことであろう。現実の自分がある。そして小説の内容に共鳴するあまり、そこに自分が入り込んでいる。作中の主人公の悲しみ、喜びがすべて読者にも共有される。そのときは小説の中の自分が実態で、今ここに存在する自分は魂の抜け殻のようであるとも言える。
さて、『世界の終わり』では、裏の世界では、主人公の shadow がいる。さらに自分が分裂するのだ。主人公から切り離されて日に日にshadowは弱まっていく。そして、二人は脱走を試みる。表の世界につながっていると見える water whirl の中に shadaw は飛び込む。しかし、主人公は飛び込まない。
この話から教訓的なことを汲み取ろうとしても無駄であろう。この小説では、いろいろな素材が提供されているだけで、モジュールと言っていいのか、並べ替えてそこから意味を見つけるのは読者ということになる。積み木が与えられ、物語を構築して意味を与えるのは読者ということになる。読者の力量がむしろ問われているのか。