芥川龍之介の『羅生門』を読む。いままで『銭形平次捕物控』をずっと読んでいたので、そのトーンの違いにしばし考え込む。

『銭形平次』は野村胡堂が49歳の中年になってから、書き始めたエンターテイメント用の作品群である。読者の好みを知り尽くして、どのような舞台設定すれば、売れるか知り抜いた老練な作家の巧みな技の作品群であると言えよう。

それに反して、『羅生門』は、芥川龍之介の23歳の時の作品である。エンターテイメント的な志向は全くなくて、ただ世の不条理を淡々と語った作品であると言えよう。

23歳の青年の筆の冴えわたる様に驚くのである。この年に同じ頃に書かれた「ひよっとこ」も酒が入ると踊りが好きな中年男の人生を描いた小品も腕のたしかさに驚く。

さて、自分は京都の羅城門を訪れたことがある。羅生門のあった場所らしいが、現在は小さな公園となっていて、ここにかって堂々たる門が立っていたことを偲ばせるものはない。東寺の近くにあるが、観光客もここまでは足を伸ばさない。近所の子どもたちが数名何か遊んでいたのを思い出す。

羅生門にでてくる下人の姿に己を投影する人もいるだろう。そう、現実の苦しさの中に、何とかしなければという下人の姿は数多くの人々の姿でもある。

エンターテイメント的な要素は全くなくて、ハッピーエンディングもない。善人も悪人も出てこない。ただ、ただ、現実世界を忠実に移した23歳の芥川青年の筆力に感嘆する。