安岡章太郎の『戦後文学放浪記』を読んだ。岩波新書であり、ほんの数時間で気楽に読める本であった。

随筆集であり、自分自身の文壇での体験をまとめたものである。本の内容は体系的に論じてるのではなくて、その時その時に感じたことを、文の流れの赴くままに語っているのである。

かれは、第二次世界大戦に従事して、満州にいたが、彼は肺結核を患い、内地に送還となった。彼の所属した部隊は後日フィリピンに送られて、ほとんどが戦死した。彼自身は戦中に死と向き合い、そして偶然、生きることができたのだ。その戸惑いを感じながら、その思いを原稿用紙に書き連ね、次第に作家として認められてゆく。

この本は彼の半世紀の記録でもあるが、個人的なことはほとんど書かれないで、主として、自分の先祖の歴史、安岡家の歴史、それに自分の関係する作家仲間達とのエピソードが書かれている。

このあたりは、戦後の日本文学史に詳しい人間は興味を惹くが、門外漢の自分にはぴーんとこない部分がある。

面白かった表現をいくつか披露する。

「あの干上がった泥沼のような海の底に、つらなって立っていた杙(くい)の列を見たときの衝撃は、何か恐ろしいものを暗示すると同時に、どこか心の底の方では安堵に似たものを覚えさせてもくれてもいた。つまり、人は干潮のときに死ぬという、自然の大きな法則を認めてしまうと、自分もその大きな枠から逃れれられなくなる代わりに、それに身を任せてしまえば、あとは思い煩うこともない、という・・・」(p.70)

フォークナーが敗戦後の日本に来たときに、「われわれ南部人は、同じく戦争の敗者として日本人の心持ちはよく分かる」と発言した。(p.84)

「蒲原有明、薄田泣菫、吉田絃二郞といった古めかしい叙情作家の紀行文か何かを、長々しく節をつけて朗読されると、まったく坊さんのお経か和讃でも聞かされるようで、私に限らずクラスの大半の者が居眠りしそうになる」(p.117)

こんな何気ない文章に自分は、はっとしてしまう。(そうか人は干潮のときに死ぬのか)。安岡章太郎の文体は結構長い。今時の若い人ならば、もう少し短くして、テンポ良くリズム感を作り出すであろう。でも、安岡章太郎のこの長ったらしい文体に昭和を感じて懐かしく思うこともある。