泉鏡花の『外科室』を読んだ。よく分からない。自分ならば、評価は100点満点で30点ぐらいかと思う。話が短すぎる。伯爵夫人と手術担当の医者の間に何があったのか、すべて読者の想像に任せるというのは、酷な話だと思う。

しかし、ネットでこの本の評判を調べてみると意外と評価は高い。「命をも投げ捨てるような愛の形は、まさしく壮絶と呼べるものでした」という評価があった。

しかし、この小説のどこを読んでも、命を投げ捨てるような必然性もないし、外科医も命を投げ捨てるような必然性もない。まったく、ほとんどの内容を読者に想像させる方法、ほとんど読者に手がかりを与えない方法、こんな小説があるのか!?

昔、伯爵一家の女性3人の姿を商人の若者二人が見かけて語り合う場面が出てくる。庶民の若者は「あのまた、あるきぶりといったらなかったよ。ただもう、すつっとこう霞に乗っていくようだっけ」と歩き方まで手放しで褒め称える。

世の女性を貴賤で二分類してしまい、上層階級の女性は高貴であり、下層階級の女性は卑しくて汚い、と単純に述べている。明治の頃の身分制の厳しい時代の考え方であろう。

今の時代は、週刊誌があって、上流階級だろうが、売れっ子の芸能人だろうが、政治家だろうが、スキャンダルがあれば、遠慮なく暴いてしまう。それゆえに、我々は人間は皆同じだ。特に貴賤で分類できるような単純な者ではないことを知っている。

でも、二人の究極の愛の場面、「そのときの二人のさま、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全くひとなきがごとくなりし」と書かれた場面には、何がしかの感動があることは確かである。


ゲーテの詩に『すみれ』がある。

野原に咲く、可憐なすみれの話である。自分が一番美しい花ならば、そしてあの人に摘み取られ、ほんの15分でいいから、抱きしめられたいと願うのである。ただ、その人はすみれに気づかず踏みつけてしまう。すみれは踏みつけられて死んでゆくのだが、幸せに感じるのだ。

ああ それなのに ああ!
やってきた少女は
すみれに気が付かず
哀れなスミレを踏みつぶしてしまった

すみれは力尽きたが 
本望だった
あの人に踏まれて死ねるのだから!

この詩では、少女(das Mädchen)に対して、すみれが憧れるという場面設定だが、自分はここは若者(der Junge)と読み替えて、味わっている。恋の究極は死に至るのだ。このあたり、『外科室』の主題とも重なってくる。そんなことを考えたりもした。なお、映画あったそうだ。伯爵夫人は四品側百合が演じているそうだ。