2014-04-01
レイモンド・チャンドラー(稲葉明雄訳)『マーロウ最後の事件』晶文社 1975刊を読む。チャンドラーの探偵小説の魅力はフィリップ・マーロウという私立探偵に追うところが大である。とにかく、あらすじの流れは早い、登場人物の心理描写に延々と時間をかけたり、自然などを丹念に書き込むことはない。とにかく、スピードと展開の早さが魅力であろう。ハリウッドのアクション映画のような勢いがある。チャンドラーを訳す人の苦労を考えてみたい。アメリカという異文化の1930年代を背景に、怪しげな人たちを相手にする探偵を描くのだが、日本人にどのように伝えるのか気が遠くなるような作業であると思う。まず、「湖の女」の冒頭に自治警察(sheriff’s office)がある。あめりかのシエリフは選挙で選ばれて、その下で働く人々はシエリフに選ばれるのである。メグレがアメリカに行って、フランスとあまりに違う組織なので驚いたという記述があった(Liberty Bar)。それから私立探偵というシステムも日本人には分かりづらい。日本の探偵はせいぜい身元調査か浮気調査ぐらいである。やたらと発砲するし、簡単に人が死ぬのも驚きである。文化の違いと言えばそういうことになるのか。翻訳でこれらの文化の違いをどのように乗り越えるのか。
訳者のメタファーの訳し方にも興味を引かれる。p.174には「ピアノの脚の下には、北米ねずみが一週間、ぜんぜん目をさまさずにねむりつづけてそうな桃色の中国製絨毯が敷かれていた」とある。このメタファーはアメリカの文化の中で頻出するのか、それともチャンドラーのオリジナルのメタファーか、興味が引かれる。比喩的な表現を共有しない文化間で、それをどのように訳すのか。公式はないのだろう。訳者は一つ一つをみて、自分の勘と経験で、日本語に置き換えていく。途方もない仕事であり、そのような仕事をする訳者稼業の人には深い敬意を払いたいと思う。