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泉鏡花の『夜叉が池』は幻想的な雰囲気の中、純愛を貫くカップルの話しで面白い。夜叉が池は福井県南条郡南越前町にある池の名前である。ただし、岐阜県の揖斐川町との境界付近に位置するので、岐阜県の人々は自分たちの池だと考えているようだ。
夜叉が池は現代でも秘境であるが、それが明治時代ならば、秘境の秘境というとことであろうか。ほとんど人が訪れることのない池である。この近くに百合と晃という夫婦が住んでいる。二人は仲つまじく暮らしている。そこに学円という僧侶でもあり学者が訪問するところから話しは始まる。
この話しを大枠にして、さらに二つの別の話しが組み込まれている。魚の世界の物語、コイやカニが人間のように会話をしている。もう一つは、夜叉ヶ池の龍神である白雪の話しだ。白雪は、剣ヶ峰の恋人のところに行きたくて仕方がない。しかし、白雪が動くと大洪水となって村全体が呑み込まれてしまう。周りの人々は彼女に思いとどまらせようと必死である。あまり詳しく書くとネタバレになるのので、皆さんは、実際に手にとって読んでもらえればと思う。短い話しなので直ぐに読み終えると思う。
人間の住む世界の周辺に超自然的な存在者が住むと信じられている。その世界は、非常に美しくて、同時に恐ろしい世界である。現代のこの俗世界に住んでいる自分としては、興味津々の世界だ。こんな幻想的な世界に入り込み、超自然的な体験をしてみたいと考える。
岐阜は比較的に水に恵まれた地域である。しかし、この話では、旱がひどくて、村人は人身御供が必要だと考えるほどであった。このように、水が過不足が過去の時代では普通であったのだろう。現代のように治水の整った時代になって初めて、適度に水が常に供給できるようになったのである。
人類の歴史は治水の歴史であった。いわば、龍神との戦いの歴史であった。おとなしくなったと思えた龍神であるが、この戯曲のように、時々は暴れ回るのだ。
なお、この小説は、ハウプトマンの『沈鐘』から題材を取ったとされている。種本の方もいつか読んでみたい。
一つ面白いと思った点は、百合は飲み物や果物を提供した時は、謝礼としてお話を聞かせてもらうそうだ。この地は巡礼、薬売り、行者などが通るが、何か飲食の提供を受けたときは、お礼としてお話を聞かせてもらうのだ。ストリーの意味、新聞やテレビのない時代の人々の楽しみの一つは、遠地から来たこれらの人々の話しを聞くことであったことが分かる。
学円 代価じゃ。
百合 あの、お代、何の?……お宝……ま、滅相めっそうな。お茶代なぞ頂くのではないのでござんす。
学円 茶も茶じゃが、いやあこれは、髯ひげのようにもじゃもじゃと聞えておかしい。茶も勿論、梨を十分に頂いた。お商売でのうても無代価では心苦しい。ずばりと余計なら黙っても差置きますが、旅空なり、御覧の通りの風体ふうてい。ちゃんと云うて取って下さい。
百合 そうまでお気が済みませんなら、少々お代を頂きましょうか。
学円 勿論ともな。
百合 でも、あの、お代とさえ申しますもの、お宝には限りません。そのかわり、短いのでも可ようござんす、お談話はなしを一つ、お聞かせなすって下さいましな。
学円 談話をせい、……談話とは?
百合 方々旅を遊ばした、面白い、珍しい、お話しでございます。
学円 その談話を?
百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴客あなたには限りませず、薬売の衆、行者ぎょうじゃ、巡礼、この村里の人たちにも、お間に合うものがござんして、そのお代をと云う方には、誰方どなたにも、お談話を一条ひとつずつ伺います。
ブログも要はストーリーを提供してくれる媒体であって、人々の珍しい話しを聞きたいという要求を満たしてくれるものだ。それは昔の人々も同じであったろう。違うのは媒体だけが異なるのである