異文化の森へ

物語の構造

2015-03-03
先日、ある学会でウラジーミル・プロップ(Vladimir IAkovlevich Propp)の昔話の形態学について論じた発表を聞いた。要は多様に見える昔話だが、構造に着目すれば単純化することができる。プロップは、それを31の機能に分類している、という内容であった。
また、アールネ・トンプソンのタイプ・インデックス(Aarne-Thompson type index , AT分類)がある。これは、世界各地に伝わる昔話をその類型ごとに収集・分類したものである。日本でも、関敬吾が『日本昔話集成』の中で、1.動物昔話、2.本格昔話、3.笑話と大きく3つに分ける分類と、これとは別に「日本昔話の型」という分類を発表している。
このような分類は昔から試みられてきているが、私見では人間の認知構造と深く結びついていると思う。これらの昔話を最も単純化すると、stage 1 から通過儀礼を経験してstage 2 に行く。公式化すると (A)→通過儀礼
→(B) となる。ヘンゼルとグレーテルでは、貧しい生活→森の中での試練→豊かな幸せな生活、である。白雪姫は、お妃に妬まれる存在→リンゴを食べて死を経験する→再生して王子と結婚する、である。
一人の作家がいて、何かユニークな物語を作り出しても、それが長い間に語り伝えられるうちに、上記のような公式にあうように変形していく。昔話のように代々伝えられてきたもの、しかも口伝えによるものは、公式化への変形圧力が強い。
人間はこの公式にそったお話を聞くと一安心する。それは人間の基本的な認知構造であるからである。しかし、書き言葉が生まれ物語が変形に対して抵抗するようになった。しかし、昔は、手書きで筆写されてきたのである。それゆえに、やはり変形したと思われる。新約聖書などはそうではないか。新約聖書は、当初はイエスの復活の部分はなかったのだが、再生・復活の部分が書き加えられたと考えられる。
我々は他人の苦労話を聞いても、その構造にそって、その話を再認してしまう。山田さんは若い頃は苦労したのだな→特に借金を背負って苦しんだ→でも借金は返して今は悠々自適な生活をしている、のような具体である。自分自身の過去もそのストーリにそって再構成する。あるいは、未来の自分も、そのストーリで再構成する。
今、毎日ハルキ・ムラカミのWind-up Birdを聴いている。この話は上記のような公式に当てはまらないように感じる。様々な物語が出てきて、前後のつながりがよくわからない。まるで、夢を見ているようで、目覚めて、今しがたまで見ていた夢を再構成しようとしても、各項目のつながりがないので、不思議な感じがする。
しかし、人間は基本的な認知構造に当てはめようとするので、ムラカミの話でも何とか公式を当てはめようとする。巨悪はノボル・ワタヤであり、それと戦い打ち負かすことでクミコを再度手に入れて幸福な生活へと戻る、とでも公式化できるか。でもこの物語の主人公は何も行動しない。ただただ受身なだけである。こんな主人公が通過儀式の物語の主人公になれるのか。ムラカミの書く物語の意味をしばし考えてみたい。

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