異文化の森へ

Nos concitoyens

2015-02-24

no.3413 に赤ん坊が苦しんで死んでいく場面がある。あっさりとは書かないで、かなり詳しくその苦しむ有様が、数ページにわたって、描かれている。人々は、赤ん坊を見て思わず Mon Dieu, sauvez cet enfant. と祈ってしまう。しかし、祈りも効果なく、赤ん坊は苦しみながら亡くなる。神父はその姿を見て何か感じることがあったようだ。(ここで、père を神父と訳すのか、司祭とするのか分からないので、ネットで調べると同じ意味とあった)

no. 3527 にはノストラダムスの予言書まで参照されて、人々はペストの終末の時期を見極めようとした、とある。ノストラダムスはこのころはまだ信頼されていたようだ。20世紀の終わりにノストラダムスは世界中で話題になったが、予言が全然当たらないので忘れされた存在になってしまった、私もフランス語の原典を購入したのだが、いつか暇つぶしに読むことがあるかもしれない。実は、今、気づいたのだが、kindle でもこの本を購入していた。そんなことで今、kindleで中身をざつと見てみる。1555年に書かれた本であるから、文体はかなり古いが、読めないことはなさそうだ。450年ほど前の本でも、現代の文体とはさほど変わらない。アカデミー・フランセーズがフランス語の固定化にいかに貢献したか、このことでも分かる)

Nos concitoyens という表現がよく出てくる。この小説のキーワードの一つのようだ。Camusは共同体の根底に存在するものとして、Nos concitoyens を想定して、社会を作り上げるものとして、信頼したのではないか。そして、神は不在として、神の不在に耐えられる存在としての Nos concitoyens に期待したのではないか。

no. 3549 から神父の Paneloux が説教が始まる。ペストがはびこる中で、どのような説教が可能であろうか。ドンファンが地獄に行った話(モリエールの戯曲ではドンファンは突然地面が裂けて地獄に落ちる場面があった)と赤ん坊の死は対比できないと語る。そして、なにやら、倒錯した理論で神の無力、神の不在と見える現象を弁明するのである。

Mes frères, l’instant est venu. Il faut tout croire ou tout nier. Et qui donc, parmi vous, oserait tout nier ? (no. 3563)
La souffrance des enfants était notre pain amer, mais sans ce pain, notre âme périrait de sa faim spirituelle. (no. 3586)

現代の苦悩は永遠の祝福に導くと説くのである。なぜ、Camus はこんな神父のたわけた説教を入れたのか。キリスト教をおちょくっているのだろうな。

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